以前読んだ、
仏教学者の「ひろさちや」先生の本に、
こんなことが書いてありました。
意訳で掲載させていただきます。
「現世は満員電車。指定席もあり、自由席もある。グリーン車もある。
満員だから、運悪く立ったままの人もいる。
途中で座れる人もいるが、終着駅まで立ったままの人もいる」
「それぞれの乗客に、それぞれの終着駅がある。
電車そのものには、終点はない。
誰かが、どこかで降り、代わりに誰かが乗ってくる」
「各自の終着駅に着いたら、電車を降りる。死とは、そういうことである」
「自分が降りるぶん、座席か、ひとり分のスペースが空く。
死とは、他の乗客を楽にさせてあげる行為なのだ。すなわち布施である」
「なるほど」と思う反面、
「このままだと遺族に言いづらいなあ」という感想を持ちました。
「死は悲しいことではないのですよ」というメッセージにはなりますが、
「布施」という言葉の説明を加えるとキャッチーさに欠けてしまうし、
かといってそこの説明をはしょると、きっと誤解を生むだろう、と思ったのです。
「亡くなった人は、誰かのために電車を降りたのですよ」と言われても、
遺族としては「まだ乗っていて欲しかった」という気持ちでしょう。
「寿命」という言葉がありますが、
それもニュアンスが難しく、大往生といえる年齢まで生きる方もいれば、
病気や事故で早逝してしまう方もいます。
「まだ生きていて欲しかった」と思っている方や、
「もっとこうしてあげたかった」と後悔しているご遺族に対するグリーフケアの観点からすると、
「死は布施である」というお話は、
受け入れづらいのではないかなあ、
と感じていました。
しかし昨年、
私の母が亡くなったとき、
この話を実感したのです。
母は脳梗塞で倒れ、
意識不明のまま、
3か月の闘病の末に亡くなりました。
まだ平均寿命よりは若かったので、
入院したばかりの頃は、正直に言って
「どのくらいの期間入院費を捻出する必要があるのだろう」
という不安がありました。
入院し数週間が経った頃、
医師から「もう意識が戻る可能性はほぼない」と告げられました。
そこからは「少しでも長生きして欲しい」という気持ちと、
「でも、この先どうやって介護したらいいのか」
という気持ちのぶつかり合いでした。
私のその気持ちを汲んでくれたかのように、
母は3か月で旅立ちました。
悲しさ、さみしさももちろんありましたが、
どこかホッとした心が生まれたのも、事実でした。
母は決して、自分から死んでいった訳ではないと思いますし、
意識がない中で、どこまで私の苦悩を知っていたかはわかりません。
しかしそれでも、なんとなく、
私の心を感じ取っていたのだ、と思ってしまうのです。
「息子に、あまり負担をかけないように逝こう」
という気持ちが、そこにあったように思えて仕方がないのです。
満員電車から降りて、誰かに席を譲った人のように、
「母は私のことを、少し楽にしようとしたのだ」と思うことで、
様々な気持ちが入り混じっていた私の心が、救われたような感覚がしました。
「まわりの人のために、今、自分にできる最大のことをする」という「布施」という修行。
意識のない母が、私のために最後にしてくれた行為を、
こうして実感することで、悲しい気持ちが少し和らいだのです。
この経験があって、ひろさちや先生の言葉が文字通り体に染み入ってきました。
「死」は「布施」であるという法話を、
いつか完成させて、
母の気持ちに報いたいと思っています。